記録的な猛暑に襲われたこの夏でしたが、みなさまはいかがお過ごしでしたでしょうか。
私自身の日本記号学会の会長を拝命しての二年目は、「終息を諦め、忘却に委ねる」というコロナ禍との新たな向き合いとともに始まりました。なし崩しに社会の基本がゆがめられていく不気味さは、この感染症問題に限らず、私たちが大切にしてきた人間の知性の危機を予感させます。学会の健全な運営は、そうした力学に抗する防波堤になると信じ、それを守るために、一年目はスクエアな物言いばかりをしてきたかもしれません。どうかお許しください。しかし皆さまからいただいた大変暖かいご理解・ご協力によって、なんとかハードルはクリアできたように思っています。改めて御礼を申し上げます。
体制(かたち)が落ち着いた次の課題は、そこに中身(こころ)を入れていくこと。まずは、多くの素晴らしいゲストをお招きし、全体の企画テーマを「仮面の時代」と名づけた第43回大会を、6月に開催いたしました。そして続いて7月に、学会誌『叢書セミオトポス』の第17号を刊行することができました。コロナ禍中に行われた第40回(2020年)、第41回(2021年)の両大会でのテーマ「生命への問い」を軸に、学会40周年記念企画も併せて、いつもより若干厚みのあるボリュームでのお届けとなりました。これらの実現にむけてご尽力いただいた全ての方に、心から感謝を申し上げます。
大会、学会誌発行という二大イベントを、旧来のスケジュールに戻せたことに続き、今年度の下半期には、いよいよ電子ジャーナル『記号学研究 (The Japanese Journal of Semiotic Studies)』が発行されます。こちらも新たな編集体制を整えてカウントダウンに入っています。どうかお楽しみに。また、懸案の研究会の実施など、年間を通して活発な動きをお示しできるよう、テンションを緩めずにやっていきたいと思っています。学会はあくまで会員のみなさまにご利用いただける「場」でなくてはいけません。そのためにはコンスタントに活動している状態を作ること。それも今年度の大事な目標でした。さてようやくここまで来ました。ここで改めて私は、会員のみなさまに一つの問いを投げかけたいと思っています。それはこの「場」、すなわちここが「記号学会」であることの意味についてです。言うまでもなく現代における「記号の学」はソシュールの「セミオロジー」とパースの「セミオティクス」から広がった潮流です。海外では一つのディシプリンとして公式に制度化されている国もあるようですが、日本においては一時的な「ブーム」はあったものの、それは未だなされてはいません。逆にそのことによって「日本記号学会」では、領域横断的な自由な雰囲気が、文化として継承されてきました。
本年三月に逝去された室井尚元会長は、何よりもそれがこの「場」の価値であると、しばしば言葉にし、大切にしてこられました。私もそれに賛同して20年前にこの会に参加し、そして及ばずながらその精神を繋ごうと、運営のバトンを受け取りました。しかし様々な課題に向き合うにあたりもう一度、学会に冠する名辞である「記号」とは何なのか考えねばならないと、強く思うようになりました。
ソシュールは『一般言語学講義』において、記号学を「社会生活のさなかにおける記号の生を研究するような科学」として提唱していますが、同時に「それはまだ存在しないのであるから、どんなものになるのかわからない」とも言っています(岩波版、p.29)。もし「記号」に、つい目を離すと分野に閉じこもろうとしてしまう専門知に風穴をあけ、学問の際を越える原動力があるのであれば、我々は「記号」を論じる中にその「生」の本質を認め、その探究を諦めず続けていく必要があります――改めて「記号」とは何でしょうか。それを考える「場」にはどのような「意味」「役割」があるのでしょうか。
水島 久光 (東海大学)