学会大会についてはこれまで、大会後のニューズレターに大会実行委員長による開催報告を掲載してきました。それに加えて今回は、新たな試みとして、本学会に入会し初めて大会に参加した新会員の目線から、大会の様子を伝えていただくことにしました。執筆をお願いしたのは、教育哲学・教育思想史の立場からパース記号論について研究されている宮坂朋彦氏(立教大学・日本学術振興会特別研究員PD)です。【大会実行委員会】
思考とは必ずしも脳と繋がっているわけではない。それはミツバチや結晶の働きに、また純粋に物理的な世界の至るところに現れている。そして、物体の色や形などが現実にそこにあるのと同じように、思考が現実にそこにあるということを否定することはできない。…[中略]…思考は、有機的世界に存在するだけでなく、そこで発展してもいる。しかし、それを具現化する実例なくして一般的なものが存在し得ないように、記号なくして思考は存在し得ない。
(CP 4.551。CPはパースの著作集Collected Papers of Charles Sanders Peirceの略号で、数字は巻数と段落番号を示す。訳は引用者。)
二松学舎大学にて行われた日本記号学会第46回大会に参加してまず思い浮かんだのは、チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce, 1839–1914)が1906年に書いた “Prolegomena to an Apology for Pragmaticism”(「プラグマティシズムの弁明への序説」)の一節です。ラッパムシ、ロボット、土器といったさまざまなアクターが登場した三つのメインセッションはもちろん、会員/非会員による多様な研究発表を含め、今大会はまさに、記号としての「思考」(thought) が世界のあらゆるところに現れているというパースの言葉を体現しているように感じました。
私は教育哲学・教育思想史においてパースを研究してきました。日本記号学会の存在は知っていましたが、これまで大会に参加したことはなく、ただ『叢書セミオトポス』は買い集めているという隠れフォロワー的な距離におりました。実行委員長を務められた谷島貫太先生より、今大会は「パース記号論のフロンティア」をテーマとしているとお誘いいただき、「反転クオリア」をめぐるパースのテクスト読解のご発表(和田太洋氏)と、パース記号論による記号接地問題 (symbol grounding problem) の再定式化に関するご発表(伴野崇生氏)と並んで、大会1日目に会場A「パース記号論の核心」にて個人発表をさせていただきました。
私の発表の趣旨は、「教育記号論」(edusemiotics) を例として、「解釈者」(interpreter) と、記号が生み出す解釈内容である「解釈項」(interpretant) の相違をいかに捉えるのかがパース記号論の応用分野において問題となるのではないか、というものでした。教育学にとってパースはアウトサイダーです。とりわけ日本では、デューイのプラグマティズムが盛んに論じられている一方で、「パースと教育」をめぐる研究はさほど多くありません。そのため、所属学会での口頭発表ではあまり質問が出なかったり、基礎的な概念に関する質問をいただいたりすることもしばしばありました。初参加ということもあり、今大会でもそういった反応がある可能性も想定しながら臨んだのですが、予想外に多くの方からご質問・ご意見を頂戴し、大変実りのある学会参加となりました。発表をお聞きいただいたみなさまに、改めて感謝申し上げます。
今大会全体を通して新鮮だったのは、普段の私にとってはどちらかと言えば説明・解説が必要な場面の多いパースの諸概念が、むしろ共通言語となって他の研究に対する理解を助け、議論を深める役割を果たしていたことです。生物学、ロボティクス、生態学的心理学、技術論、認知考古学、プラグマティズム、言語人類学、文化心理学、言語人類学…。メインセッションに登壇された先生方のご専門を並べただけでも、それぞれの専門分野がどのようにつながるのか、一見しただけでは想像がつかないほど多様です。学術政策から大学経営方針まで、「学際性」や「超-学際性」が叫ばれるようになって久しいですが、一方で各学問分野の高度化・細分化の進行も著しく、同じ学問的起源を持つ領域同士ですら先端的研究においてはなかなか対話が成り立たないという状況も耳にします。そんな2026年現在において、パースの記号論がさまざまな領域で「概念的なエンジン」(大会HPより)となり、多様な研究者を繋いでいるというのは驚くべきことです。何より、これだけ多くの研究者と、パースを話題にして懇親会のテーブルを囲むことは、そうそうあることではありません。パース自身にとっては不本意なことだったと思いますが、彼の著作が十分なかたちで残されなかったからこそ、その思想は聖典(カノン)として神聖視されるのではなく、広範な研究領域を緩やかに架橋し、時にその緊張関係を浮き彫りにする基準(カノン)となり得ているのかもしれません。
もう一つ印象に残っていることとして、問題提起にて示された「野蛮」という言葉に触れておきたいと思います。パース研究者なら誰もが、「野蛮な強制」(brute compulsion)(CP 5.97)を想起したのではないでしょうか。初参加の身ではありますが、パースのカテゴリー論——経験のあり方を第一性(質・可能性)、第二性(反作用・現実性)、第三性(法則・媒介)の三つで捉える枠組み——における第二性と関連づけられるこの語が本学会の特徴として示されたことには納得感がありました。パースは第二性を論じるにあたり、「経験を構成するのは強制 (compulsion) であり、私たちがこれまで思考してきたのとは別の仕方で思考せよという、私たちの上にのしかかる絶対的な制約 (absolute constraint) である」(CP 1.336)と述べています。またパースの宇宙論では、第一性としての「質」 (the qualities) はそれ自体では「永遠の可能性」に過ぎず、質同士の「偶発的な反応」(accidental reaction) という第二の要素をもってはじめて「出来事」と呼べることが論じられています(CP 6.200)。最後に行われた全体セッションは、今大会がこうした「偶発的な反応」の連続だったことを象徴していたように思います。記号学会の「野蛮さ」とは、そこがまさに「可能性」としての諸研究が偶然に出会い、ぶつかり合う「出来事」の場であることを意味しているのではないでしょうか。
私自身、「教育記号論」という日本ではまだ知名度の低い萌芽的研究に取り組む身として、今大会で得たさまざまな知見を自らの専門領域において活かしつつ、次の大会における新たな「反応」の一端となれるよう精進してまいりたいと思います。最後になりますが、あらためて発表や懇親会において貴重なご意見をくださった先生方、素人質問にもかかわらず丁寧にお答えいただいた発表者のみなさま、そして何より、大会準備・開催にご尽力いただいた関係者のみなさまに、深く御礼申し上げます。
宮坂 朋彦(立教大学・日本学術振興会特別研究員PD)
