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学会員・非学会員問わず当日どなたでも自由に参加できます【非学会員参加費:2,000円(※学部生以下無料)】
しかし「まてよ」と思う。われわれ人間は有史以来、顔に対しては常に両義的な態度を示してきたではないか? 覆いをかけることは情念を穏やかに抑えると同時に、表出を強化することでもあり、そこに心を覗きこもうとする視線を集中させる一方で、空間に乱反射させる鏡の役割をも果たしてきた。ただそれらの多くの経験、様々な解釈は、別々のコンテクストの中に散り散りになったままだった。
「マスク=仮面」の時代の認識を持つことは、それらの関心に横串を通す好機なのかもしれない。ようやく4年ぶりに、会員非会員問わず、議論ができる環境が整った――伝統とテクノロジー、あふれかえる表象の中で、まずはそこに錯綜する意味を取り出すためのモード合わせを試みてみたい。
開催にあたって
大会実行委員長:
水島 久光(東海大学)
しかし「まてよ」と思う。われわれ人間は有史以来、顔に対しては常に両義的な態度を示してきたではないか? 覆いをかけることは情念を穏やかに抑えると同時に、表出を強化することでもあり、そこに心を覗きこもうとする視線を集中させる一方で、空間に乱反射させる鏡の役割をも果たしてきた。ただそれらの多くの経験、様々な解釈は、別々のコンテクストの中に散り散りになったままだった。
「マスク=仮面」の時代の認識を持つことは、それらの関心に横串を通す好機なのかもしれない。ようやく4年ぶりに、会員非会員問わず、議論ができる環境が整った――伝統とテクノロジー、あふれかえる表象の中で、まずはそこに錯綜する意味を取り出すためのモード合わせを試みてみたい。
プログラム/タイムテーブル
1日目【6/17】(会場:研究発表の分科会を除き、全て2201~2教室)
12:00
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12:00
受付開始
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12:30〜14:10 |
12:30〜14:10
学会員/非学会員による研究発表①
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14:30〜15:00 |
14:30〜15:00
問題提起 (水島 久光)
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15:00〜17:00 |
15:00〜17:00
第1セッション 能面と中間表情をめぐって
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セッション概要 白洲正子は『能の物語』の「おわりに」で、「わたくしたちの祖先が、仮面というものに対して、およそどのような考えかたをしていたか」について次のように述べる――「実際にも面をつけると外部の世界から隔絶され、現実から遠くはなれて行くような気持ちになるものです」。この「別の世界」との邂逅という物語の核が「面(おもて)」によって担われていること、そしてそのかたちが六百年前に出来上がってから、今日に継承されてきた不思議を考えてみたい。
能は難解な伝統芸能という印象を与えている。しかし世阿弥の『風姿花伝』に記された考え方は、今日の「日本的な」と言われる様々な文化事象の受容に共通するものであり、また題材も非常にポピュラーで、実は知らず知らずのうちに、触れていることがらも少なくない。能の世界の扉を開けてみると、まずその構造性に驚かされる。「舞」「謡」「囃子」の三つの要素が、簡素を極めた舞台で組み合わされ、シテとワキという自他のミニマルな関係性がナラティブを動かす――「面」には、そこで視線を集め、また再び時空間に広げる意味論的な重要性が備わっている。 ゲストには観世流シテ方、加藤眞悟師をお招きする。故二世梅若万三郎及び三世梅若万三郎に師事し、一九八五年の初舞台以降、数多くのシテ役をつとめてきた。演者としてのキャリアの厚みだけでなく、近年は出身地の平塚市にゆかりのある演目の復曲に取り組み、注目を集めている。今日既に演じられなくなった謡本を発見し、その仮名とゴマから型や演出を創りあげる緻密な過程は、まさに記号論的実践といえよう。今回は最近(本年二月)に初めて平塚で上演した『大磯』などの演目を例に(映像の一部を上映)、能を舞うことへの想いを語っていただく。
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2日目【6/18】(会場:研究発表の分科会を除き、全て2201~2教室)
9:30
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9:30
受付開始
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10:00〜11:45 |
10:00〜11:45
学会員/非学会員による研究発表②
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11:50〜12:30
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11:50〜12:30
総会
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13:20〜14:50 |
13:20〜14:50
第2セッション ロボティクスと心
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登壇者:谷口 忠大[記号創発システム論/記号創発ロボティクス](立命館大学)
加藤 隆文[プラグマティズムの哲学/美学/芸術学/記号論](大阪成蹊大学)
椋本 輔[情報デザイン/ネオ・サイバネティクス/記号論]
セッション概要 このセッションでは、今回このように「仮面」という概念・記号を手掛かりに、情念や心を捉えようと議論している我々自身を含め、様々な表出に意味を見出す時に我々が立っている「視点」を移動すること、そして意識化することを図る。
それは、まず何かしら具体的な「記号」の存在を出発点とする記号学・記号論的な議論に対して、まずそこに何かしら関係性の構図すなわち「システム」を見出すことから出発するシステム論的な議論と言えるだろう。そうしたシステム論の中でも、円環的なフィードバック・ループとしての観察と制御という観点によって、生物と機械とをシステムとして横断的に考察することを可能にしたのが、(ファーストオーダー)サイバネティクスである。そして、そこで言う「観察」とは一体何なのかを考えるために意識的に視点を切り替えることを理論化した、二次的(セカンドオーダー)な「理解することについての理解」のためのシステム論が、ネオ・サイバネティクスである。理論生物学の知見に根ざしたオートポイエーシスという概念を核とするそれは、かつて「文化的現象など〈人間にとっての表れ〉を分析する一手段としての記号論」を超えて生物・生命全般にとっての意味の問題に迫ろうとした生命記号論などとの接続も試みられた。 今回は、そうした新世代のシステム論とC.S.パースの記号論をはじめとするプラグマティズム哲学とを共に援用したAIロボットの研究開発=記号創発ロボティクスに取り組み、また記号創発システム論という人間理解のための体系を構想している谷口忠大氏を招き、その取り組みについての紹介をもとに議論する。それは、実空間の中で、マルチモーダルな情報による観察とそれに基づく制御のフィードバック・ループによって行為し続けることで、その環世界からボトムアップに「記号」を見出すことを目指す、そうした「AIロボットからの視点」に思いを馳せ、我々の想像力を尽くすことである。 このように、理工学的な技術知といわゆる人文知の間で越境・横断を試みる、否むしろそうした二分法自体を疑うような議論は、かつて本学会でも様々になされてきた。しかし、情報技術が社会的に一般化し、もはや日常生活のツールとして全面化しつつある一方で、あるいはそれによってむしろ、そうした議論が難しくなった面も有るのではないか。正に今も、昨年(2022年)の終わり頃から急激に、ChatGPTなどをはじめとした大規模言語モデルに基づく生成的AIシステムがインターネットを通して手軽に利用できるアプリケーションとして広がり、情報技術と人間との関係についての議論が改めて大きく様変わりしつつある。このように、こうした技術知と人文知を直結するような議論は、そうした議論をしている我々自身の足場が刻々と揺らぐような「際どさ」が有る。 しかし、今改めてその直結を試み、敢えて「AIロボットからの視点」を徹底的に想像してみることによって、例えば能における動かざる中間表情に対して動的に意味を見出している、心や情念をもった「観察者」としての我々自身の姿も、また違った視点から浮かび上がってくるのではないだろうか。そうした可能性に向けて、本セッションの議論を展開していきたい。
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15:00〜17:20 |
15:00〜17:20
第3セッション 拡散する顔と過剰化する表情
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登壇者:夏目 房之介[マンガ研究]
細馬 宏通[人間行動学/表象文化論](早稲田大学)
岡室 美奈子[テレビドラマ論/演劇論](早稲田大学)
竹内 美帆[マンガ研究/美術教育](星槎道都大学)
佐藤 守弘[視覚文化&メディア研究](同志社大学)
前川 修[写真論/美学](近畿大学)
セッション概要 この3年間、私たちはマスクで顔を覆ってきた。「マスクという言説」に世界全体が覆われてきたとさえ言える。そしてコロナ騒ぎが沈静化した現在、マスク=覆いはひとまず取り払われたようにも思える。
しかし、ことはそれほど単純ではないのかもしれない。例えば、コロナ生活を通じて、私たちはマスクで隠された顔の部分を美的に補正するスキルを身につけたと言われるし(だからマスクを外した本当の顔をみると少しだけ落胆してしまう)、Zoomをはじめとするビデオ通話での顔を見せての対話では、実はわずかに時差を挟みつつ自動的に補正するテクノロジーを通じて「本当の」顔とのつながりを見出していたし(だから長時間、この時差と補正に付き合うと、ひたすら疲弊してしまう)、あるいは逆に、映画、マンガ、TVドラマなど、大衆文化の表象の中で無数に登場する顔、その過剰な顔の表出に心を揺さぶられることも多かったのかもしれない(大流行したアニメやマンガやテレビドラマの顔表象の質的、量的過剰さと、それを見ている私たちのマスクに覆われた日常の顔との落差に、ふと気づいて驚いた人も多かったかもしれない)。自分自身の顔を覆うマスク、マスクのような顔、虚構的記号にすぎないのに顔らしく見えるマスク…よく考えるときわめて複雑なことが進行しているようにも思える。私たちがフィクショナルなものにリアルを見出し、私たちのリアルなものがフィクショナルになったと言うべきなのか…ただし、それも話が単純すぎる。 「顔身体学」で知られる山口真美の指摘によれば、この30年間に私たちが記憶する顔の数は5倍(人は通常500人の顔を覚えているらしい)に増大しているという。それは2010年頃から広まったSNSやオンデマンド視聴など、インターネット環境とも無関係ではない。間接的な顔、そのつながりで私たちは世界を構成している。あるいは、主にスマホで視聴される昨今の映像コンテンツが顔の大写しに満ちていることも、もはや誰もが頷く現実だろう。顔は増大し、拡散し、世界を覆い尽くしている。 いや、もっと遡ってみれば、1960年代、TVドラマや漫画雑誌で無数の他人の顔表象を定期的に見るようになって以来、私たちは登場しては交代し、そうして拡散する顔の群れにそれとなく晒されつづけてきた。それどころか、そもそも私たちは、顔でもない周囲の世界の至るところに顔やその表情を見出さざるを得ない生き物であるのかもしれない。私たちはフィクショナルな顔にリアルを見出す。だから、シミュラクラ現象やパレイドリア現象をただ奇妙なものと笑って済ませられないほど、私たちは顔や表情にとりつかれている。それは、マスクに覆われていたコロナ禍の只中でも、それ以前でも以後でも、同じことだったのかもしれないのである。 生物学、心理学、脳科学から美術史、人類学、哲学、さらには「顔学」に至るまで、顔は人文科学の内外で、これまでさまざまに論じられてきた。ダーウィン、エクマン、カッシーラ、レヴィナス、鷲田清一、坂部恵、廣松渉…顔言説も、少しずつ重なりながらも、やはり拡散している。 表象における顔を基点としながら、そして顔をめぐるこれまでの言説も参照しながら、顔/表情を考えること。このセッションでは、コロナ禍とそれ以前/以後も視野に収めながら、マンガ研究の視点、メディア論・映像論の視点、そしてTVドラマ論の視点から、顔へとアプローチする。 |
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17:30〜18:00 |
17:30〜18:00
総括 (水島 久光) |
研究発表・分科会の詳細
学会員/非学会員による研究発表①【6/17】
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学会員/非学会員による研究発表②【6/18】
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